パリ五輪日記⑥ 五輪に挑んだサラブレッド(後編)

今日は障害飛越種目の団体予選が行われたが、日本は決勝進出を逃した。なので1936年ベルリン五輪総合馬術に出走したサラブレッド競走馬・アスコットの話を続ける。

アスコットの競走戦績は35戦17勝(2着13回)。連合2マイル、帝室御賞典、中山記念(当時は4000m)などを勝ち、生涯獲得賞金6万8423円は当時のレコードだった。

父は宮内省がイギリスから輸入したチャペルプラムプトン。母は小岩井農場が輸入した名牝系の出自という、まさしく貴顕である。もし競技の世界に足を踏み入れていなければ、種牡馬になっていたに違いない。

特筆すべきはそのタフさで、帝室御賞典を勝った翌日の目黒記念に出走して、なんと勝ってしまうのである。むろん現在では前日に走った馬の出走など認められていないが、このエピソードは全長数十キロにも及ぶクロスカントリーコースを走破するに足る頑健さを示したものといえる。

アスコットを管理していたのは名伯楽・尾形藤吉。アスコットは尾形が手掛けた数多くの名馬の中でも際立って性格がおとなしく、素直で、賢い馬であり、教えたことは何でもよく飲み込んだと言われる。ここに第一の壁「適性」がクリアされた。

また尾形は「オリンピック出場は馬の名誉であり私の名誉でもある」とも語っている。種牡馬にさせるよりもオリンピック出場の方が名誉なこととされた当時の時代背景に加え、全兄のワカクサが既に種牡馬入りしていたことも手伝って二つ目の壁「種牡馬入りの葛藤」はクリアされた。こうしてチャンピオンホースのオリンピック出場は日に日に現実味を帯びてくる。

1933年5月14日。引退レースとなる根岸競馬場の横浜特別(3200m)を70キロという酷量を背負いながらも勝つと、アスコットは陸軍騎兵学校に寄贈された。そこに待ち受けていたのは、前年に行われたロサンゼルスオリンピック障害飛越で金メダルを獲得した「オリンピックの英雄・バロン西」こと西竹一だったのである。

こうして三つ目の壁をもクリアしたアスコットに、競技馬になるための特訓がスタートした。だが、ベルリン五輪までに残された期間はわずか3年。競走馬から競技馬へのリトレーニング期間としてはあまりに短かった。結果、ベルリン五輪総合馬術に出場したバロン西とアスコットは12位という成績に終わっている。

それでもクロスカントリーでは能力の片鱗を見せつけた。全長36キロにも及ぶ難コースをタフに走り続け、規定時間よりも3分も早くゴールを駆け抜けて見せたのである。失権馬は実に17頭。残りの日本選手2名も完走はならなかった。競走馬引退から3年であることを踏まえれば、アスコットの成績は誇られるべきであろう。

かつてアスコットを管理していた尾形藤吉は、後年の著書の中で「アスコットが数々の難関を切り抜けてクロスカントリーでゴールに入ったという報告を聞いた時は、競馬で勝ったときよりもうれしかった」と当時の心境を書き記している。

今も記録として残る調教師通算勝利数1670勝。日本ダービー8勝。8大競走39勝、等々。数々の金字塔を打ち立てた尾形をして「競馬で勝ったときよりもうれしかった」と言わしめたことそれ自体が、アスコットにとってはメダル以上の栄誉だったに違いない。

 

***** 2024/8/1 *****