シンザンに思いを馳せて

シンザン記念の創設にあたっては、オーナーが所属する中京競馬場での実施を望む声もあったというが、京都はシンザンのデビューの地であり3冠達成の地でもある。そもそもシンザンは中京で走ったこともない。京都改修に伴う中京での3年間を経て4年ぶりに京都にシンザン記念が帰ってきた。今年はシンザンが3冠を達成してから60周年の節目でもある。

かつては、カブトヤマ記念セイユウ記念やクモハタ記念といった名馬の名を冠した重賞レースはほかにもあった。なのに、現在ではメインのレース名に使われている馬名はシンザンセントライトのみ。「トキノミノル記念」は共同通信杯の、「ディープインパクト記念」は弥生賞の、それぞれ副題に過ぎない。

昔は馬名をレース名を残すための条件として、3冠馬でなければならないとか、顕彰馬でなければならないとか明確な内規があったそうだが、少なくとも現在のJRAにはそういった決まりごとはないそうだ。なのに馬名を冠したレース名は増える気配はない。

JRAは非公式ではあるが「馬名に“シンボリ”や“ナリタ”などの冠名が付けられていたり、現在も種牡馬として供用されていたりする馬の名をレース名に使用することは、他の馬主、種牡馬への配慮から難しい」という見解を示している。「シンボリルドルフ記念」や「ナリタブライアン記念」が実現する可能性は、内規がなくなってしまったことで、むしろ低くなってしまったようだ。

とはいえ、シンザンの偉大さはシンボリルドルフナリタブライアンとは比較にならない。そういう意味では、シンザン記念というレースの重みもいや増す。

晩年のシンザン(1993年撮影)

シンザンの何が凄いか。クラシック3冠と天皇賞有馬記念を勝ったからか。19戦19連対というパーフェクトなその戦績か。いやそうではあるまい。日本に生まれた名馬の子供たちがターフに帰ってくる。これこそが、単なるギャンブルではなく文化としての競馬の魅力であることを社会に広く浸透させたことが凄いのである。「単なる数字の組み合わせの賭け事」としか思われていなかった当時、競馬を今日の形に発展させた貢献者は、人間では野平祐二であり、馬ではシンザンをおいてほかにいない。

当時の競馬は、外国からの輸入種牡馬の産駒ばかりが走り、いくら競走で好成績を残して引退しても、その後種牡馬として人気を集めることなどまずなかった。「それなら犬やアヒルが競走しても同じこと」と揶揄されることもしばしば。だからシンザンの初年度産駒がわずか34頭にとどまったのも仕方ない。だが、数少ない産駒からシルバーランドやスガノホマレといった快足馬が次々と誕生し、種牡馬入り7年目からは交配100頭を超える人気を集めた。

内国産種牡馬でも外国産に太刀打ちできる。

今では当たり前にもなったこの事実を、初めてシンザンが示したことでアローエクスプレストウショウボーイマルゼンスキーなどの成功につながった。日本の競馬サイクルの構造を根底から変えてみせたシンザンの功績は計り知れない。

今日の中山3R6着のキタノコンドルや、昨日の琵琶湖特別7着のアスカノミライは、ともに3代母の祖父がシンザン。昨年の戸塚記念黒潮盃を勝ち、来週の報知グランプリカップに出走予定のヒーローコールは4代母の父がシンザンだ。シンザン記念当日に限らずとも、血統表にシンザンの名を見つけたら、シンザンの功績に思いを馳せてみるのも悪くない。

 

***** 2024/1/8 *****