ブーツを吊るすとき

世界的名手がターフを去った。

騎手の引退に際して、日本では「鞭を置く」と表現するが、仏国では「ブーツを吊るす」と言うらしい。オリヴィエ・ペリエ騎手が引退した。1989年、16歳で見習いジョッキーとして初めてレースに騎乗してから35年。仏国内2995勝と節目の三千勝まであと5勝と迫りながら、それでも彼は「もうじゅうぶん」と話した。JRAでは通算379勝。うちGⅠは12勝。短期免許だけでの成績だと思えば、やはり天才的だったと言わざるを得ない。

クリストフ・ルメール騎手がJRAのナンバーワンジョッキーとなっている今だからこそ思う。世が世なら、外国人による初のJRA騎手誕生はペリエ騎手だったかもしれない。流暢な日本語を操り、電車を乗り継いで競馬場に通う親日派ジョッキーの嚆矢。日本の競馬を理解し、そして何より日本の競馬ファンを愛していた。ジョッキーになってもっとも嬉しかった勝利は?と問われ、「ウイングアローで勝ったフェブラリーS」と即答したシーンは今も忘れぬ。ちなみに、この時点で彼は英国ダービーも凱旋門賞ブリーダーズカップも勝っていた。それがフェブラリーSだなんて。

外国人騎手に対する短期免許制度が導入された1994年の当時は、トップオブトップの参戦はあまり期待されていなかった。いくら賞金水準が高いとはいえ、わざわざ日本に拠点を移すスター騎手などいないというのが大方の見立てである。実際、適用第1号はニュージーランドの女性騎手であるリサ・クロップ騎手だった。

そこに突如としてペリエ騎手がやってくれば誰もが驚く。野平祐二調教師(※当時)が管理馬にペリエ騎手が乗ると決まって喜んでいた光景は忘れがたい。彼はまさにトップオブトップだった。そんな彼の日本での成功が短期免許制度そのものを軌道に乗せ、ひいては日本競馬のレベル底上げに一役買ったことは間違いない。武豊騎手の「JCアンバサダーの就任を」という提案は理にかなっている。

栗東滞在中のペリエ騎手は、京都散策を趣味としていた。ひとりで目についたレストランに入って、食事をするのが楽しみだったという。

「どんな料理が出てくるかわからない。でも食べてみる。美味しいか、美味しくないかは食べてみないと分からない。納豆が口に合わないことも、一度はダメだと思った鮒寿司が実は美味しいことも、そうやって学んだ。まずは挑戦してみないとね」

鮒寿司がイケるというのは凄い。さすがフランス人。そんな挑戦の精神が日本での成功につながったのであろう。35年間のキャリアで一番の思い出はパントレセレブルで勝った1997年の凱旋門賞だそうだ。世界的名手の思い出のシーンに立ち会えたことを私の誉れとしよう。

 

***** 2024/4/26 *****