ニッポン競馬こと始め

今週の東京メインはダート1400mの根岸ステークス。そのレース名は、かつての根岸(横浜)競馬場に由来する。

そこで最初の競馬が開催されたのは1867年1月11日のことだから、今から157年も昔の話。なにせ根岸競馬場を作ったのは江戸幕府である。文久3年に勃発した下関戦争によって湧き上った日英の緊張を緩和するための施策として、歴史に名高いハリー・パークスが根岸に競馬場を設置することを幕府に求めたのがそもそもの始まり。こうなると競馬の話というよりもはや歴史の話にしか聞こえない。

馬場は1周約1マイルの右回り。スタンド前からスタートすると、急激な下り坂を降りながら1コーナーを曲がらなければならない。逆に2コーナーは上り坂。その極端な自然の地形を生かしたコースは、技術と経験がモノを言った。当時の騎手の評判は、あまり良くはなかったらしい。

それでも居留地の外国人にとっては数少ない娯楽のひとつである。だから、ひとたび競馬開催となると横浜中の会社はもちろん、銀行、病院さえも休業の看板を掲げたという。横浜全体が休みということは、日本の対外貿易が停止すると言い換えても過言ではない。根岸の競馬にはそれほどの影響力があった。明治中期になると、新聞にも「横浜根岸で馬かけのため、貿易会社は休業」といった記事を目にするようになる。

しかし、そんな熱狂も戦争には勝てなかった。競馬場のスタンドから横須賀の軍港が丸見えという理由から、海軍に接収されたことは以前にも書いた通り。終戦後は、米軍がゴルフ場として使用したのち、1969年に返還され、今では「馬の博物館」や公園として市民の憩いの場となっている。

聞いた話では、根岸を競馬場として復活させようという動きもあったとされる。競馬法に明記された、日本中央競馬会が開催を行うことができる競馬場の中に、平成3年まで「横浜」の名前が残されていたことも無関係ではない。明治天皇が幾度となく行幸され、帝室御賞典や皐月賞の第1回が開かれた根岸競馬場は、やはり特別な存在なのである。その名を戴く根岸ステークスがGⅢ格付に留まることに、不満を感じる人もあるようだ。

ところで、今週の根岸Sに登録しているタイセイサムソンは、その母系を12代遡ると伝説の牝馬アストニシメントに辿り付く。

アストニシメントのファミリーからは天皇賞の前身となった帝室御賞典の勝ち馬も何頭か輩出されているが、うち1頭のオーグメント(競走名「アスベル」)は1926年秋の根岸の帝室御賞典を勝った名牝であり、2010年から根岸Sに5年連続出走し、11年には優勝を果たしているセイクリムズンの8代母でもある。

2012年さきたま杯 セイクリムズン岩田康誠

ほかにもリキサンパワーニホンピロサートワイドバッハなど、根岸Sで好走歴を持つアストニシメントの子孫は少なくない。同ファミリー出身のタイセイサムソンには力強いデータではあるまいか。競馬場は消えても血統は続く。それが競馬の醍醐味のひとつだ。

 

***** 2024/1/24 *****