トキノミノル記念

今週末に行われるGⅢ共同通信杯には「トキノミノル記念」の副題が付いている。トキノミノル日本ダービーを勝ったのは1951年のこと。73年も前のことだから、よほどのベテランでない限りその雄姿を目撃したファンはいないはずだ。むろん私とて例外ではない。

ただし現代のファンもトキノミノルの名に触れる機会はある。それが東京競馬場パドックのそばに立つトキノミノル像。かつては待ち合わせの定番だった。このブロンズ像を永田雅一オーナーが東京競馬場に寄贈したのは1966年のこと。翌年から共同通信杯4歳Sが始まり、それに「トキノミノル記念」の副題がつけられたのは3年後の1969年だ。

トキノミノルが、デビュー時点では「パーフェクト」という馬名だった逸話はよく知られている。デビュー戦でのレコード勝ちに気を良くした永田氏は、馬名を「トキノミノル」に変更した。「トキノ」は永田氏が尊敬していた菊池寛が好んで使った冠号。それが10戦無敗でダービーを勝つのだから、氏の慧眼はさすがと言うべきであろう。デビュー戦のレースぶり次第では、共同通信杯の副題は「パーフェクト記念」になっていたかもしれない。

そのトキノミノルにはライバルがいた。それが同い年のイツセイ。3歳時に64キロを背負いながら安田賞(現在の安田記念)をレコード勝ちし、4歳時には73キロをものともせず中山ステークスに勝っている。通算32戦21勝で、2着が8回。30戦以上しながら連対率9割6厘は素晴らしいのひと言に尽きる。

しかし同期にトキノミノルがいたことは、イツセイにとって不運だったと言うほかなかろう。イツセイは朝日杯からダービーまで5戦して、すべてトキノミノルの2着に甘んじた。それでも朝日杯の4馬身から、3馬身、2馬身、2馬身、そして1馬身半と、着実に差を詰めていた事実は強調しておきたい。

両者の最後の対戦になった1951年6日3日のダービーの朝。トキノミノル脚部不安説が流れる。実は、ダービーの9日前にトキノミノル裂蹄を発症していた。ダービー出走も危ぶまれる事態だったとも言われる。イツセイにとっては千載一遇のチャンス。もし、ここで勝っていれば、ひょっとしたら共同通信杯の副題は「イツセイ記念」になってたかもしれない。

トキノミノル血の滲む脚でダービーをレコード勝ちしたが、その17日後に破傷風によりこの世を去る。こうして彼は「幻の馬」となった。破傷風発症の原因は蹄の傷口から菌が入ったためとされる。命を賭して成し遂げたダービー制覇。だからこそこのレースが今も特別なものであり、ダービーを目指す3歳馬たちの登竜門たるレースの副題となっているのであろう。

トキノミノル

シャフリヤール、ドゥラメンテディープブリランテジャングルポケット……。共同通信杯好走をステップにダービーを制した馬は列挙に暇がない。今年の出走馬からダービー馬は誕生するだろうか。その一頭一頭を、トキノミノルパドック脇から今も見守っている。

 

***** 2024/2/8 *****