2007年のJRA賞最優秀ダートホースにしてGⅠ級レース9勝の名馬・ヴァーミリアンが亡くなった。22歳。疝痛によるものだという。この6月にノーザンホースパークで会ったときも一心不乱に柵癖をしていた。それが疝痛の一因になった可能性はある。「疝痛になっちゃうぞ」。冗談半分でそう声をかけたのだが、彼の耳には届かなかったか。
ダートで一時代を築いた名馬であると同時に、2歳時にはラジオたんぱ杯2歳Sも勝った芝・ダート二刀流の名馬でもあった。ラジオたんぱ杯を勝ったからには翌年のクラシックの有力候補である。だが残念なことに同期に怪物が一頭いた。皐月賞ではそのディープインパクトに真っ向勝負を挑むも12着。京都新聞杯、神戸新聞杯と二桁着順が続いたことで陣営はダート転向を決断する。その裏には神戸新聞杯で手綱を取った福永祐一騎手の進言があったとされる。それがなければ、あるいはその進言を陣営が聞き入れることがなければ、稀代のダートホースは誕生していなかったかもしれない。そこからエニフSと浦和記念を連勝だから。福永騎手の見立ては正しかった。
しかし暮れに出走を予定していた名古屋グランプリが雪で中止になったあたりから流れがおかしくなる。年明けの平安Sは2着に敗れて賞金加算に失敗。なにせ当時のダート界ははカネヒキリの全盛期である。シーキングザダイヤやブルーコンコルドといったダートグレードの常連組に加え、タイムパラドックスやスターキングマンも現役だった。思うようなレース選択ができないおかげで、4歳時のヴァーミリアンはGⅡを2勝したのみ。彼のキャリアのハイライトはこの翌年から始まるのである。
5歳1月の川崎記念でGⅠ級初勝利。アジュディミツオーに6馬身差は本格化の証であろう。そこからちょうど3年後の川崎記念まで、GⅠ級レースだけに出走し続けて16戦9勝。当時の最多となるGⅠ級レース9勝は、実はこの3年間だけで作られた記録だ。もし2歳時からずっとダートを使われていれば、記録はもっと伸びていたかもしれない。
とはいえ、アドマイヤジャパン(菊花賞2着)やローゼンクロイツ(菊花賞3着)、シックスセンス(皐月賞2着)を相手にしなかったラジオたんぱ杯の強さは衝撃的だった。中山のターフビジョンでそのレースぶりを観て、「皐月賞は決まった」と感じたあの日が懐かしい。この時点でディープインパクトは新馬を勝っただけの1勝馬だった。芝での2勝も彼のキャリアに残すべき輝かしい実績であろう。
一時期とはいえクラシック戦線の主役を務めた彼に、遅ればせながら感謝の意を表すとともに、先月スタッドインしたばかりのリュウノユキナに、一頭でも多くの配合相手が集まることを期待しよう。名馬エルコンドルパサーの血のバトンは次の世代に受け渡された。安心して休んでほしい。合掌。
***** 2024/9/15 *****